『玄界灘を越えて 青井戸』 吉松ひろむ ( Kinoppy for iOS 1.4.0 )

2013年2月22日金曜日

 著者死しても本は残ります。

 いきなり私的な話になりますが、筆者の祖父は若いころ詩作にふけり、横山青娥氏が主催する雑誌に投稿していた詩を自費出版しました。その後兵役に出て、戦後は山口県で教師をして生活し、プロの詩人となることはありませんでした。2004年没。

 国立国会図書館の NDL で祖父の名前をキーワードに検索すると『孔雀羽』という彼の詩集がヒットします。実際に閲覧申請してみたところマイクロフィルムでしか手にすることはできませんでしたが、祖父が存命の頃実物を見せてくれた詩集に間違いありません。今後彼の詩を省みる人がいるかどうかは分かりませんが、間違いなく残っているのです。

 e-book は……どうでしょうか。

「本」という実体は強力で、祖父の詩集すら残ります。e-book はそのフォーマットを読むソフトが失われることで、消えてなくなる可能性があります。先に紹介した『超小型出版』の冒頭で Craig Mod 氏は

…ZIPドライブはフロッピーを食った。
CDはZIPを食った。
DVDはCDを食った。
SDカードはフィルムを食った。
液晶はブラウン管を食った。
電話は電信を食った。
メールは会話を食った。
そして今タブレットが紙を食おうとしている…

 と書きだしています。そういえば今我々は LINE がメールを食っているのを目の当たりにしていますね。今ある EPUB や .book が百年後の読者に届くのか、ということは考えてしまいます。

 ここに、著者が2008年に世を去った e-book があります。
吉松ひろむさんとは直接お会いすることができずに訃報に接することとなってしまったのですが、ネット上でやりとりをさせて頂いたことがありました。とても気さくにご自分が今私が起居している辺り──大田区にある馬込という辺り──に昭和三十年代住まわれていた時のことを教えて下さいました。その時私は吉松さんが「高麗物」と呼ばれる朝鮮半島に出自を持つ茶道具を扱う仕事をされており、韓国の文化にも造詣が深いということなどは余り知らずにやりとりさせて頂いていました。

 今更ながら、吉松さんの著書が百年先まで残るお手伝いになれば、と取り上げています。


大切な本を読むためのリーダーを選ぶなら


 私は Kinoppy で本作を読んでいます。実際には BookLive! や Sony の Reader store、au のブックパス、あるいはセブンネットショッピングなどでも購入できるのですが、それらのラインナップを眺めたうえで紀伊国屋BookWeb での購入に進みました。



 理由はというと「現時点では紀伊国屋BookWeb 及び Kinoppy が一番使いやすく、ビューも安定して読み易いから」ということに尽きます。いずれこの作品は Kindle store でもダウンロードできるようになるでしょうが、Kindle がラインナップに並んでいても現時点ならば紀伊国屋を選ぶだろうとおもいます。試す、というような軽い気持ちでなく、縁のある吉松さんの作品を読むならば……という判断が入った時、紀伊国屋を選んだ、ということはお伝えしておきたいと思います。

 さて、タイミングというのか、今並行して河出文庫から出た『ナボコフの文学講義』を読み始めています。名作、文豪についてウラジミール・ナボコフが味わい尽くし論じ尽くすといったものです。その観点から『玄界灘を越えて 青井戸』を読んでいるといろいろ思うことがありました。

 茶道具についても、韓国・朝鮮の文化についても、勿論日本の文化についても膨大な知識をもっていた吉松さんがひとつの茶碗を前にした時、この茶碗がここに来るまでのお伽話をその知識から紡ぐ……というか、自然と湧き上がるような思いがあったのではないだろうか。そんなことを随所で感じました。

 動物が語り手となるような小説は夏目漱石の『吾輩は猫である』や井伏鱒二の『山椒魚』などすぐに思いつきますが、焼き物が土として眠っていたところから自らを語り出す……というような表現技法があっただろうか。でも茶碗が主人公であるということが吉松さんから見て大前提であったならば当たり前な設定だったのかもしれません。

 それでいて、茶碗が作中ところどころで自己主張するのは吉松さんが自分の思いを茶碗に語らせている、ということに他なりません。

 このやり取りを聞いて、オレは宗湛なる人物の清廉潔白ぶりに改めて感動したョ。
 その点、利休は自分勝手に眼のたまがひっくり返るような高値をつけやがる! すこしは宗湛を見習えヨ! そればかりか宗湛は朝鮮王朝や明国、南蛮の情勢などよく見極めているんだ! その視野を勉強しなければいけないぞ、秀吉よ、国際感覚はなんもねぇじゃないか!

 韓国語と日本語を自在に操る茶碗がこういう事を独りごちるというのはつまり吉松さんが文句を言っていると考えて良く、微笑ましく思えるところでもあります。ただ、銘器である青井戸蓬莱、秀吉とも会っているというからこその科白ではあるのでしょうね。

 巻末に、本作品は大きな文学賞への応募を考えていたが、ある理由でやめてしまわれ、原稿は文机に仕舞い込まれることとなった話が紹介されています。結果として没後世に出ることとなった訳ですが、是非ひとりでも多くの人が読んで、巻末に記されたその経緯までたどり着いてほしいようにおもいます。吉松さんが天国から舌を出して眺めておられるのを感じられます、きっと。茶道に縁のある、韓国に興味を持っている、対馬や博多の歴史を調べている、どんな入り口でも良いと思うのです。